「奇跡の6日間」(小学館/アーロン・ラルストン、中谷和男)

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アーロン・ラルストン奇跡の6日間

スポーツマンで登山家でもあるアーロン・ラルストンは、詳しい行き先を誰にも告げることなくユタ州の渓谷を訪れた。そして、先史時代の岩面線画を見るために、ほとんど人の訪れないスロットキャニオンを懸垂下降していった。
あとわずかで渓谷の底に着こうというとき、浮き石が彼の右腕を手首のところで挟み込み、押し潰してしまった。
押しても引いても巨大な岩塊はびくともしない。手持ちのナイフで岩を削ろうとするが、全く歯が立たない。右手以外は、ほぼ無傷であったが、その場から動くことはできず、外部との連絡も取れる状態ではなかった。
待っていても、救助が来る可能性はほとんどない。彼自身が何とか動くしかないのだ。
そこから、彼の恐怖と奇跡の6日間が始まった。




作り物のホラーは、この現実の前にすべてひれ伏すだろう。
偽りの感動は、この事実の前にただ立ちつくすだけだ。


あまりにも恐ろしい現実。読んでいると、じっとりと手に汗をかいてしまう。
文章がまた素晴らしい、表現も文学的で、彼の味わった6日間を、まるで自分が体験しているかのように感じる。目を背けたくなるような表現が多いのだが、それでも彼の行く末が気になって、一気に読んでしまった。


奇跡の生還というと、最近映画化もされた「運命を分けたザイル」(原作「死のクレバス」)を思い出させるが、あちらは、曲がりなりにも身体を動かし、自力で移動することができた。この話はそうではない。右手が岩に挟まれて、その場から動くことができないのだ。水も食料もなくなり、挟まれた腕は壊疽し始める。緩慢とした死を待つことしかできない、という恐怖。腕が動かせないので、しゃがむこともできず、ほとんど睡眠も取れない。まさに死へのカウントダウン。


一度は完全に死を覚悟したアーロンだったが、最後の方策を試してみることにした。それは、自ら右手を切り離す、ということ。
しかし、腕を切るのは容易ではない。彼のナイフでは、肉は切れても骨を断つことができないのだ。何度目かの挑戦のあと、彼は、先に腕の骨を折ることにした。
もう、このあたりは凄絶としか言いようがない。文章から目を背けたくなる。気が弱い人は読めないかもしれない。


彼の事故の最大の特徴は、ビデオカメラを持っていたことだと思う。
遺書を手帳に記す、というのは、古来からよくなされてきたが、ビデオで自分の様子を撮影し、メッセージを残すのは、非常に現代的である。直接、自分の言葉で語りかけることで、文章では飾ってしまうような本当の気持ちが、はっきり現れているように感じた。
生死の狭間を迎えたとき、人は何を思い、何を感じるのか、そういうものが残されたメッセージから、痛いほど伝わってくる。
そのビデオのメッセージとともに、ギリギリの感情を、ここまで克明に、かつ文学的に文章で表現されているのがなんとも素晴らしい。


とくに印象に残っているのは、手が腐敗し始めたときに、これ(腐りかけた腕)はもう「生ごみだ」と表現した部分と、自らそれを切り落としたとき、「二度目の誕生」と表現した部分。


生と死、希望と絶望、歓喜と落胆、それらを繰り返し、そして乗り越え、最後まであきらめず、生き抜いたアーロンに拍手を送りたい。


なお、表紙の写真にもあるが、アーロンはその後、(バイル付き)義手をつけ、クライミングをしたり、4000m級の冬山の単独登攀をするほどになっている。