「二人のアキラ、美枝子の山」(文藝春秋/平塚晶人)

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二人のアキラ、美枝子の山

2004年7月刊
松濤明と奥山章の二人のアキラ。そして、その二人と深い関わりを持つ女性、美枝子を通じて、戦後の登山史を見る。


まず目を引くのが、著者である平塚氏と美枝子さんの往復書簡で、全編が構成されているということ。美枝子のもとに取材に訪れた平塚が、美枝子との手紙のやりとりを繰り返すうちに、松濤明、奥山章の二人の人生が徐々に明かされていく。


事実を追うドキュメンタリーではあるのだが、書簡形式なので小説風でもある。


この書簡形式というのが、非常に効果的に感じられた。平塚の手紙では、周囲の人々に対する取材や残された資料から二人の姿に迫り、美枝子の手紙では、実際にふれ合った人間にしか分からない観点から二人のプライベートな姿を描き出す。
この立体的な構成により、話にふくらみが出てくる。
また、平塚自身、現役のクライマーであり、この物語の中でも実際に二人にゆかりのあるルート(北鎌尾根や北岳バットレス中央稜など)を登攀するシーンも登場する。そのつながりで、現在の登山界の様子も描写され、さらに話はふくらんでくる。


まず語られるのが、井上靖の「氷壁」。この小説の主人公のモデルが松濤明。そして恋人役のモデルが美枝子である、というところから話は始まる。


私自身の松濤明のイメージは、やはり「風雪のビヴァーク」のラスト

我々ガ死ンデ 死ガイハ水ニトケ、ヤガテ海ニ入リ、魚ヲ肥ヤシ、又人ノ身体ヲ作ル 個人ハカリノ姿 グルグルマワル

の部分の印象が強く、ロマンチストな岳人という感じがしていた。
しかし、実際には、山のためなら妥協を許さず、エゴイストで、周りからは結構反感を買っていた、ということが分かった。

松濤さんが何より悔しかったのは、死ぬことではなく、「手ノユビトーショウデ思フコトノ千分ノ一モカケ」ないことだったのです。

という部分は、あの遺書に対して新たな側面を考えさせられた。


松濤明の死の真相に迫り、過去を振り返ったあと、奥山章の話に入る。


私の奥山章の事前イメージは、第二次RCC、そして自殺、というキーワード。
ここでも、多面的に語られる奥山の姿から、刹那的で負けず嫌いという新たな一面を知ることができた。そして、心から山を愛していた、ということも。

極言すれば、それ(註:ザイルのトップを張っていたほんの数年)以降の奥山さんの人生はすべて余生だったのではないでしょうか。思うようなクライミングができなくなり、それでも現役クライマーであり続けるために第二次RCCを結成して以降、奥山さんはつねに、ひりつくような渇望と、そして焦燥の中に生きてきたのではないでしょうか。

第二次RCCを作り、日本アルパインガイド協会を作り、映画制作で生計を立てる、どこまでも優しい人、奥山章に対しそんな印象を持った。


それにしても、この二人の人生を眺めることで、戦後の登山史そのものが俯瞰できてしまう、という構成が素晴らしい。しかも、書簡形式という変化球で攻めてくる。ストレートに書いたら、ここまで面白く、飽きさせない展開にはならなかったかもしれない、と思った。
全体を通して、著者である平塚の優しい眼差しが貫かれており、読後の印象はとても良い。


穂高や谷川の岩場で開拓が行われ、夏壁から冬壁へ。アルプス、ヒマラヤへというあのころを知る人は、確実に少なくなってきている。松濤明が北鎌尾根で逝ったのが1949年。すでに56年が経った。この本が、あと10年遅かったら、完成することはなかったかもしれない。
この本が間に合って本当に良かったと思う。


この本を読んで、「風雪のビヴァーク」「ザイルを結ぶとき」そして「喪われた岩壁」を読み返してみたくなった。



「新編・風雪のビヴァーク」(山と溪谷社/松濤明)
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新編・風雪のビヴァーク


「ザイルを結ぶとき」(山と溪谷社/奥山章)
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ザイルを結ぶとき

「喪われた岩壁」(中公文庫/佐瀬稔)
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喪なわれた岩壁―第2次RCCの青春群像


氷壁」(新潮文庫/井上靖
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氷壁