「サバイバル登山家」(みすず書房/服部文祥)

【bk1】/【amazon】
サバイバル登山家

 (山歩きではない)個人の登山記録が一冊の本として出版されるのはずいぶん久しぶりな感じがする。「欣ちゃんの山一辺倒」(山森欣一)、「絶対に死なない」(加藤幸彦)があって、その前は「垂直の記憶」(山野井泰史)になるのだろうか。そういえば、これらは全部海外登山の話だ。日本の登山だと、いわゆる「百名山登りました」系の本はいくつか出ているが、クライミング記録となると、どこまでさかのぼればいいのだろうか。ただ、本書も(登攀という意味での)クライミングの記録ではない。ある意味泥臭い“純粋な”山登りの記録である。
 著者は「途方もない自然を相手に自分の力で活路を見いだす」ために、「食料も装備もできるだけ持たずに道のない山を歩」いてみることを思いつく。それがサバイバル登山。
 食料は米と調味料だけ。あとは現地調達。電池で動く時計やラジオは拒否し、コンロやテントも持参しない(タープは持つ)。生身の人間として、自然と真っ向から対峙することを選んだのだ。それはとてもシンプルなこと。ただ、実践するとなると、便利な現代社会に毒されてしまった人間にとっては、なかなか勇気が必要なことだ。
 南アや日高のソロサバイバルは、生死の境をさまよっているとしか思えないのだが、語り口がひょうひょうとしているので、読みながら微笑みすら浮かんでしまう。
 最終章は冬黒部。夏のサバイバルとはまた別種のサバイバルがそこにはある。人間は自然に決して勝てない、ということをあらためて思い知らされる。
 この本に序文を寄せている山野井泰史のやっていることもすごいと思うけど、同じことをやってみようと思えない(できもしない)。服部文祥もまたすごいのだけど、質が違うすごさがある。自分の求めるものとしては、後者のほうが近い感じがする。サバイバル登山も冬黒部も(可能かどうかはともかくとして)、同じようなことをやってみたい気にさせる。


 久々におもしろい本を読んだ。著者はこの先どこに向かい、何をしてくれるのだろうか。とても楽しみである。


以下、適当に本文からピックアップ。

 自分の肉体と山との間に挟まっている物を取り除いていくことで、登らされている部分を排除し、人はもう一度、登るという行為に近づいていった(p35)

 知識・技術・体力の三つに集約される能力には「重さ」も「嵩」もない。だが、この三つの能力は大自然のなかでとても直接的な存在感をもっている。その内なるエネルギーは単純に美しい。(p65)

 僕にとってソロとは完璧なる完成の条件であり、最後のピースなのだ。独りで登らなくては意味がない登山は、どうやったって独りで行かなくてはならないのである。(p95)

 登山とは現代社会が可能にしているディフェンス力--現代医療、人権、法律など--を一時的に放棄する行為だと僕は思っている。いま、生き残るために人間の根本的能力が問われるのは登山の世界くらいである。(p102)

 黒部では豪雪が力をもっている。その雪が山を原始の姿にリセットする。(中略)ここでは生身の人間が大自然とまみえるフリークライミング的な登山ができる。豪雪がフェアで限りなく自由な時空間を作り出すからだ(p176)

 僕は強くなりたい。生命体としてしぶとく生きる力が欲しい。ひとつの生命として強くなりたいと望んだとき、いまのところわれわれができるのは大自然のなかに帰ることしかない(p243)

 楽しみとして愛好するものを趣味というなら、僕の登山は趣味ではない。ずいぶん入れこんで、人生の多くを割いてしまい、山は僕からは切り離せない体の一部になってしまった。(p247)

 山に長くいれば、体のなかから都会の循環物が排出されて、山の水と山の食料と山の空気が入りこみ、僕そのものが山に近くなっていく。
 登山に求めてきたことはずっと「生きること」だ。自分の意志で「生きようとする」瞬間といいかえてもいい。(p251)

山小屋も登山道も近代装備も登山者にとっては堕落と妥協の産物でしかない。(中略)山をおとしめれば山は登れてしまう。手を加えられた山は自然ではない。(p254)