「百の谷、雪の嶺」(新潮2005年8月号/沢木耕太郎)

新潮2005年8月号

沢木耕太郎山野井泰史が雑誌(週刊現代)で対談したのが、去年の4月(発売号)のことだった。あれから1年と数ヶ月。さらに取材を重ね、沢木が山野井の登攀を文章にした。


と、読む前は、てっきり山野井泰史の話だとばかり思っていたのだが、これは、むしろ妙子夫人にスポットが当てられているように感じた。
中心となるのは、2002年のギャチュンカンの登攀。そしてそこまでの山野井の軌跡。
なぜギャチュンカンだったのか、そして、なぜアルパイン・スタイルなのか。そこから話は始まる。


自宅を出発してから、少しずつ「いつもの山とは違う感じ」が増えていく。読者の不安感は徐々にあおられる。後の悲劇を知っていると、ますますドキドキさせられる。
行動の描写も心理描写もじつに詳細で、まるで沢木が同行し、一挙一動を見ていたのではないか、と思わせるほどだ。
ギャチュンカンを描きつつ、合間に彼らのこれまでの人生を織り込み、さらに山に対する思い入れを語る展開は、さすが、とうならされる。
ライミングに関する専門用語の解説も話の中で出てくるが、それもとくにうるさくは感じない。ただ、グリセードについては、ちょっと違うんじゃないか、と思ったが。


山野井と妙子を比較するような場面は、前半から登場する。そして、ギャチュンカンの登攀に入ってからは、妙子のすごさが際だって描かれる。


・妙子は本質的に恐怖心というものを持っていないらしい
・登頂が難しいと自ら判断し、テントに戻る。そのことが翌日以降の過酷な下降にプラスとなった
・どんな状況下でもけっしてパニックに陥らない
・取付を出て以来、ほとんど飲食をしていない(食べても吐いてしまう)状態なのに、無類の強さを発揮する


山野井ばかりに注目が集まるが、この登攀、生還は、妙子なしではけっして成し遂げられなかっただろう、と思わされた。


ラストで、山野井夫妻に同行した「まったく登山経験のない中年男」というのは、明記されてはいないが、沢木自身のことらしい。二人のギャチュンカン再訪に同行していたとは知らなかった。


今回掲載されるのは、単行本の一部ということだったので、断章に過ぎないのだろう、と思っていたのだが、この『百の谷、雪の嶺』だけで充分完結している。全面的に書き直されるのか、また別の話となるのか。個人的には、妙子を中心に据えたストーリーというのも読んでみたい。


最後にひとつだけ引用しておく。

頂上に立った瞬間の達成感を欲しているからだろうか。いや、そうではない、と山野井は思う。頂上に登った瞬間ではなく、頂上直下を登っている自分を想像するとたまらなくなるのだ。間近に頂上が見えている。そこにはまだ到達していない。しかし、もうしばらくすればたどり着くだろう。そうした中で、音を立てて吹き付けてくる強い風の中を、一歩一歩登り続けているときの高揚感は何にも替えがたいのだ。

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